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アダンを食う

映画「アダン」より(制作:映画「アダン」を作る会/株式会社DHC、2006年作品)

 赤坂のはずれに沖縄懐石の店を開いて、十年になる。東京生まれのわたしが不思議な縁に導かれて、沖縄の食の世界を歩いている。少なくとも十五年前 には考えられなかったことだ。人生というのは面白い。思いもよらない世界に突然、誘われる。まるでドラマのようだ。次に用意されているシークエンスはまっ たく見えない。

 食の世界に関わる前はドラマを書いていた。ドラマを書くことになったのも偶然の出会いに導かれたのであった。

 二十代のはじめ、児童文学の世界にひかれて小さな出版社にいた頃があった。その出版社は、児童書の他に社会科学書や映画シナリオ文学全集という脚 本集なども出していた。映画は、下町育ちのわたしにとって子守唄のようなものだった。わたしの遊び場だった浅草の映画館は当時、立ち見の人々が通路まで溢 れていた。その当時の子ども料金は二番館、三番館では六十円だった。切符きりの小父(おじ)さんは看板の前で迷っているわたしをみると「早くお入り」と手 招きしてくれた。

 そのスクリーンでみた映画が活字になって目の前にあった。その中に『ここに泉あり』という水木洋子さんの脚本があった。この映画は学校の先生に引率されて見にいった。当時の学校は授業の一環として生徒たちを映画館へ連れてゆくというようなこともしていたのだ。

 脚本集には、目に焼きついていたワンシーン、ワンカットが活字で表現されていた。わたしは吸い寄せられるように脚本を読みはじめた。

 それから幾つかの仕事を経て三十代の半ばを過ぎたころ、ある日新聞に「シナリオ学校が開設される」という記事が載っていた。ふっと心が動いた。ドラマを書くなどという予測もしないことがわたしに起きたのだった。

 沖縄もある日突然わたしの前に立ち現れた。

 身体を壊し、ドラマの仕事から遠ざかっていた時だった。兄をはじめ幾人かの近しい人々を次々に見送った。様々な思いを残してこの世を去ってゆく人々の骸(むくろ)はわたしを打ちのめした。

 やがて、仕事復帰すべくドラマの依頼を受けた。だがなぜかわたしは、まったく書けなくなっていた。わたしに何が起こっていたのだろう。壁に爪を立てるような苦しい日々だった。

 あてもなく新宿の雑踏を彷徨(さまよ)っていたとき、かつて仕事で訪れた沖縄のあの生暖かい風がふいに思い出された。空港を出るとフワリと身体を 包むあの熱帯の風だ。凍りついた身体の芯がふっと溶けて、解き放たれてゆくようなあの風だ。このまま東京にいても何も出来ないのなら、あの風の中に身を置 いてみようと思い立ち、翌日には首里にいた。

 首里の宿を根城に初めて予定のない時間を過ごした。文庫本を片手に学生のように那覇をぶらつき、バスに揺られて北部や南部を旅した。さらに祭りや美しい上布にひかれて、八重山諸島に足をのばした。

 石垣島のすし屋でビールを注文すると、小皿に白く丸い筒のようなものが先付けに出された。それは、何のあしらいもなくただ皿にコロンと乗っていた。店の主人がお造りを盛りつけながら、ついでのように「それ、食べてみてくださいな」という。

 白い筒には隠し包丁が入れられていた。サクッとした竹の子のような歯触りだ。ほんのりと甘(あま)を追った白炊きは、わたしを驚かせた。しっかりとした出汁(だし)に支えられた品のいい白炊きは、「アダン」だという。

 アダンは沖縄のどの島にも群生している俗にいう「タコの木」だ。その葉株の芯だという。奄美で客死した画家「田中一村」の絵にもアダンは描かれて いるが、根はマングローブのように甲高で、葉はアロエのように肉厚で刺しをもち、パイナップルのような実をつける。沖縄本島で食べられることはないが、こ の八重山では飢饉(ききん)の時の大切な救荒食だった。

 すし屋の主人は、大阪の料亭で修業して石垣に戻った人だった。神事には必ず供えられるこのアダンが、石垣の食卓から消えかかっていることを無念に 思い、心して炊いた一品であった。「アダンを食う」という営みの背景には、離島にだけ課せられた人頭税という過酷な重税の歴史があった。あらゆる作物は税 として差し出し、飢えを満たすために八重山の人々は、このアダンの芯を食した。

 アダンを口に含みながら、その対極にある飽食の地、東京をおもった。世界中の食が集まり、贅沢(ぜいたく)の極みを競う。天をも恐れぬ東京の胃袋にはいつか天罰がくだるに違いない。

 鎌で切り落とした七、八十センチもある葉株の刺しのある肉圧な葉を剥(む)いてゆくと、灰汁(あく)の香りを放ちながら、白く艶(つや)やかな芯が現れる。それは植物の命の精を思わせて、わたしの脳裏に強く刻まれることになった。

 この南の食の営みにはヤマトが忘れてしまった食の原風景が生きていると思った。天の恵みは三里四方にあり。一皿のアダンがわたしを食の世界へと誘った。アダンと出会ったあの日から、わが裡(うち)なるまほろばを求めてわたしの旅ははじまった。

高木凛

高木凛(たかぎ りん)

~赤坂潭亭主人、脚本家、料理研究家~

東京都出身。80年代後半からテレビやラジオの脚本家として活躍。「黄色い髪」(NHK)、「息子よ」(TBS)などを手がけ、「父系の指」 (TBS)では94年度ギャラクシー大賞を受賞。その後、病気療養で訪れた沖縄に魅せられて、東京・赤坂に沖縄懐石料理店「赤坂潭亭(あかさかたんて い)」を開き、主人となる。

赤坂潭亭ホームページ

このコラムは asahi.com アスパラ で 2007年4月4日 に掲載されたものです

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『まほろば食堂』とは
高木凛が〈心のまほろば〉綴ったエッセイ集です。
昨年一年間、朝日のアスパラクラブプレミアムコラムに連載されました。


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