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糸満冷汁

上原謙さん
 沖縄では、ゴールデンウイークに行われる那覇ハーリーが始まると梅雨がやってくる。そして六月、糸満ハーレーの鉦(かね)が鳴ると梅雨が明けるといわれています。那覇と糸満では呼び方が違いますが、共に幸いをもたらす神を一刻を争って迎える、爬龍船(はりゅうせん)競争です。

 糸満漁師で、今は糸満漁具の収集家として知られる上原謙さんによると、昔は爬龍船を漕(こ)ぐにも作法があった。後ろの漕ぎ手に飛沫(しぶき)が懸かるように漕いだものだと言います。漁港近くで若い人たちの、糸満ハーレーの練習がはじまりました。

 飛沫を懸けるのは穢(けが)れを払うという意味があった。今はただスピードを競うだけになってしまったと、謙さんは、溜(た)め息まじりに往時を懐かしみます。

 謙さんの溜め息には、神々の存在が次第に遠いものになり、祭祀(さいし)の「祀」が消えて、「祭り」になってゆくことへの寂しさが滲(にじ)んでいます。

 戦前、沖縄南部の糸満は、沖縄一の漁港として栄えていました。糸満漁師の名はその勇敢さで本土にも聞こえ、小さな船で日本本土はいうに及ばず、赤道直下まで出掛けていたといいます。糸満漁で名を馳(は)せたこの町は、今やゴーヤ(苦瓜)の生産高が沖縄一、パッションフルーツなどにも力を入れて、すっかり農業の町になりました。

 「今日はゆっくりしてゆきなさい」。いつも慌ただしく糸満を訪ねるわたしを、謙さんは町の料理屋に案内してくれました。食べさせたいものがあると言うのです。そう誘われては付いて行かないわけにはゆきません。新種の野菜でも出来たのかしら。糸満は特産のパッションフルーツでジュースはもとより、ワインまで作り始めているのです。

 すでに昼食には遅く、飲み始めるにはちょっと早い時間でした。暖簾(のれん)をくぐるとカウンターではすでに常連さんたちがビールのジョッキを傾けています。謙さんが見知らぬ女を連れて入ってきたので、皆の視線が一斉にわたしに向けられました。

糸満ハーレー
 謙さんはわたしを常連さんに紹介するでもなく、小上がりに案内すると、さっさと調理場へ行ってしまいました。何事かを板さんにお願いしているようです。謙さんは自分でビールとグラスを抱えて持ってきて、注ぎながら、「今ね、冷汁(ひやじる)頼んできたから」と言います。「今度来たら絶対に食べさせようと思っていてさ。ちょうどアシキン(島魚)が入ってるって」と、潮風が刻んだ皺(しわ)をいっそう深くして自慢げです。

 やがて、どんぶりいっぱいの冷たい魚汁が出てきました。一口箸をつけると、味噌(みそ)と辛みの効いた酸味が生臭さを消して、さっぱりしているのに魚のコクもあり、これまで経験したことのない味わいです。

 謙さんが特別注文した冷汁とは、活(い)きのいい青魚がはいったときに糸満のどこの家でも作る漁師料理だと言います。味噌を水で溶き、そこに歯触りのいい青菜や胡瓜(きゅうり)などを刻んで入れ、ワタをとった青魚の皮を剥(は)いでざっくりと切って入れる。汁味のあたりは、酢とコーレーグス(島唐辛子を泡盛で漬けた辛みソース)で整えます。

 糸満の五月は初夏の陽気です。どんぶりいっぱいに盛られた冷汁は、乾いた喉(のど)に相性が良く、いくらでも入ります。謙さんは、どうだ参ったかと言わんばかりに冷汁をお代わりして、ビールから泡盛のロックに移りました。カウンターの常連さんたちも小上がりに移って、まだ日は高いというのに大宴会です。

 糸満冷汁を洒落(しゃれ)ていえば、「青魚の冷製味噌スープ造り」ということでしょうか。「口福」な午後でした。その後、この糸満冷汁は、赤坂潭亭の六月の名物となり、毎年お出しすることになりました。
高木凛

高木凛(たかぎ りん)

~赤坂潭亭主人、脚本家、料理研究家~

東京都出身。80年代後半からテレビやラジオの脚本家として活躍。「黄色い髪」(NHK)、「息子よ」(TBS)などを手がけ、「父系の指」 (TBS)では94年度ギャラクシー大賞を受賞。その後、病気療養で訪れた沖縄に魅せられて、東京・赤坂に沖縄懐石料理店「赤坂潭亭(あかさかたんて い)」を開き、主人となる。

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このコラムは asahi.com アスパラ で 2007年5月16日 に掲載されたものです

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『まほろば食堂』とは
高木凛が〈心のまほろば〉綴ったエッセイ集です。
昨年一年間、朝日のアスパラクラブプレミアムコラムに連載されました。


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