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御膳本草(ごぜんほんぞう)


1961年に再刊した『御膳本草』(當間清弘編・発行)
 『御膳本草』とは、1832(天保3、中国<当時の清>・道光12)年、琉球王府の侍医頭であった渡嘉敷親雲上通寛(とかしきぺーちんつうかん)が時の琉球王の命を受けて北京に学び、帰国後に表した琉球食療法の指導書です。いま、わたしの手元にある和綴じの『御膳本草』は、1961(昭和36)年に再刊された復刻本です。第1章の穀類から始まり、第16章の果類(果物)及び甘味物まで、当時の琉球の食べ物についてくわしく書かれています。沖縄に古くから伝わる「食は、くすいむん(薬物)」という諺(ことわざ)の原典ともいうべき書物です。

 よく知られているゴーヤは、第4章の瓜類の項に『苦瓜(くぐわ)』として記されています。「気味、苦、甘、平、毒はない。邪熱(じゃねつ)を除き、勞乏(ろうぼう)を解き、心を清め、目を明にする、夏の月は毎日食ってよい」とあります。

 詳しいのは野菜や魚類ばかりではありません。第8章、家禽(かきん)類には鶏や鴨、鵞鳥(がちょう)等について、第9章は野禽(やきん)類として雉や鳩、燕について、第10章は水禽(すいきん)類、鷺や雁です。沖縄料理の代表的な存在として知られる豚は第11章、家獣(かじゅう)類の項で羊や山羊、犬とともに豕肉(しにく)として登場し、「豕脂膏、豕肝、豕肺、豕腎、豕腸、豕蹄、豕血」と実に詳しく内臓の効能とその調理法にまで触れています。

 この本が世に出た1832年は江戸末期、逼迫した徳川幕府の財政再興を図るために倹約令などが出された、天保年間にあたります。

 この時代、琉球王府内では包厨(ほうちゅう)と呼ばれた士族の料理人が腕をふるっていました。琉球王の即位の度に中国皇帝から勅書(ちょくしょ)を携えてやってくる冊封使(さっぽうし)の為には中華風の料理を、また薩摩の役人の為には、琉球の食材を活かした和風の料理で客の位に応じて四の膳から五の膳までを供していました。

 侵攻したのは1609(慶長14)年の江戸時代初期、家康のころでした。冊封使が初めて琉球にやってきたのはその200年ほど前の1404(応永11)年から1866(慶応2)年の尚泰王の即位の時までで、実に22回に及びます。

 こうした歴史の中で琉球のおもてなし料理は、中華風、和風を巧みに使い分けて育まれてきましたが、明治政府の琉球処分による琉球王府の終焉(しゅうえん)により、次第に途絶え、包厨たちも歴史の中から消え去っていきました。

1992年に復元された首里城の正殿
 琉球王朝は、琉球の戦国時代とも言われる三山(さんざん)時代を経て、第一尚氏王統が成立した1406(応永13)年から琉球処分が行われた1879(明治12)年までとすれば、473年間ということになり、500年に満たないものでしたが、アジア諸国との交易によって大和(当時の日本)とは異なる独自の文化を築き上げてきました。

 包厨たちの書き残した献立は、島津家の石原家文書の中に、あるいは石垣島の宮良殿内(みやらどぅんち)に伝えられています。わたしはこの『御膳本草』を手にする度に、彼らもきっと繰り返し眺めたに違いないと思えてくるのです。

 毎月用意している赤坂潭亭の献立は、その多くを包厨たちが書き残してくれた文書や『御膳本草』に助けられて、生みだされています。

高木凛

高木凛(たかぎ りん)

~赤坂潭亭主人、脚本家、料理研究家~

東京都出身。80年代後半からテレビやラジオの脚本家として活躍。「黄色い髪」(NHK)、「息子よ」(TBS)などを手がけ、「父系の指」 (TBS)では94年度ギャラクシー大賞を受賞。その後、病気療養で訪れた沖縄に魅せられて、東京・赤坂に沖縄懐石料理店「赤坂潭亭(あかさかたんて い)」を開き、主人となる。

赤坂潭亭ホームページ

このコラムは asahi.com アスパラ で 2007年6月6日 に掲載されたものです

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『まほろば食堂』とは
高木凛が〈心のまほろば〉綴ったエッセイ集です。
昨年一年間、朝日のアスパラクラブプレミアムコラムに連載されました。


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