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ビロードの手触り

首相官邸で行われる首相会見の様子。(2006年1月撮影)
 このところニュース番組を見ていて、おやと思わず目を凝らしてしまうことがあります。首相をはじめとする、政府高官の会見が、ビロードのカーテンの前に立って行われることが多いのです。皆さん、お気づきでしたでしょうか。

 身近な暮らしから少し遠のいていた懐かしいビロードが、思わぬところで顔を出しています。会見は、赤いビロードの時もあれば、青のビロードの時もあります。自信に満ちて、力を誇示したい時などは赤の前に立ち、落ち着いて内容を伝えたい時は青の前でしっかりとカメラを見据えて話しているように見えます。どうやら、深い色合いのビロードが会見の演出に一役買っているようです。

 ビロードのカーテンで思い浮かぶのは、かつて東京の下町に数多くあった邦画の二番館、三番館のことです。小さな映画館のスクリーン前のカーテンは、ブザーと共にするすると左右に開いて、何本かの予告編のあと、本編が始まりました。大抵が赤いビロードのカーテンで、裾(すそ)の方には寄贈した商店や企業の名前が金糸で縫いつけられていました。昭和30年代から40年代にかけての頃の話です。

 ビロードとは、絹や毛などで織って、毛を立てた、手触りが柔らかで、艶(つや)のある織物です。ビロードはその頃、『天鵞絨』。こんな難しい漢字で書かれていました。生地屋さんの売り出しの赤い短冊には、この文字の横に『ビロード』と仮名がふってあったかも知れません。子ども心に、この文字をどうしてビロードと読むのか不思議でなりませんでしたが、ビロードの手触りは祖母の記憶と重なって、懐かしく思い出されます。

1960年1月の東京・浅草の六区映画街。映画がまだ娯楽の王様だったころ。映画館、劇場の集まる六区は東京一の繁華街と言っていいほどのにぎわいを見せていた。
 祖母は、わたしの祖父が母親を亡くした娘、つまりわたしの母を育てて欲しいと、後添えに迎えた人で、戦前からわたしの家に奉公にきていた千葉の人でした。祖母は料理自慢で、頼まれれば近所の鰻(うなぎ)やどじょうも器用に割(さ)いてあげるほどでした。

 わたしは甘えん坊で、小学生の高学年になるまでこの祖母と一緒に寝ていたのです。祖母の布団には黒いビロードの襟カバーが掛かっていて、なかなか寝つかないわたしに「鬼子母神」の拓榴(ざくろ)のいわれや、怖い閻魔(えんま)さまの話、道成寺の説話など寝物語に語ってくれました。拓榴は「鬼子母」の話が耳に残っていて、いまだに口に出来ないくらいです。

 祖母の話は、今思えばちょっと残酷な仏教説話が主で、臆病(おくびょう)なくせに、怖いはなしが好きなわたしは、ビロードの襟を握りしめながら息をこらして聴き入ったものでした。

 あの頃、どこの家の布団にもビロードの襟掛けが掛かっていました。それがいつの頃からか日本中の布団が、白い木綿のカバーに変わっていました。祖母の語った昔話も、柔らかなビロードの襟掛けとともに遠い昔のことになりつつあります。

 いま、ビロードのカーテンの前に立つ政府高官たちは、「あの頃」を思い起こす暇もないでしょう。どうやら、ライトが当たっても反射しないビロードの便利さだけが重用されているようです。

高木凛

高木凛(たかぎ りん)

~赤坂潭亭主人、脚本家、料理研究家~

東京都出身。80年代後半からテレビやラジオの脚本家として活躍。「黄色い髪」(NHK)、「息子よ」(TBS)などを手がけ、「父系の指」 (TBS)では94年度ギャラクシー大賞を受賞。その後、病気療養で訪れた沖縄に魅せられて、東京・赤坂に沖縄懐石料理店「赤坂潭亭(あかさかたんて い)」を開き、主人となる。

赤坂潭亭ホームページ

このコラムは asahi.com アスパラ で 2007年7月4日 に掲載されたものです

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『まほろば食堂』とは
高木凛が〈心のまほろば〉綴ったエッセイ集です。
昨年一年間、朝日のアスパラクラブプレミアムコラムに連載されました。


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沖縄懐石 赤坂潭亭 東京都港区赤坂 6-16-11 浜ビル/03-3584-6646 代表:高木 凛(たかぎ りん)/株式会社高木アソシエイツ