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赤坂 甲州屋

 わたしは毎日、赤坂7丁目の仕事場から、6丁目にあるわたしの店へ歩いて通っています。その道筋に、間口二軒ほどの魚屋さんがありました。ご夫婦ふたりで営む『甲州屋』さんです。無口なご主人は70の坂を越えた辺り。ご主人よりも十ほど若いという奥さんは、いつも髪をきりっと纏(まと)め、粋なはちまきにゴムの前掛けという出で立ちで、馴染(なじ)みの顔をみれば気さくに声をかけます。

森安造さん、節子さんご夫婦
 「いってらっしゃい」「いってきます」

 「おや、今日はお早いですね」「手が足りなくて。今日は洗い場さんよ」

 通りすがりに奥さんと交わす何げない言葉は、日々の暮らしのリズムになっていました。

 『甲州屋』さんはかつて赤坂、青山辺りのお屋敷出入りの店で、自分の目にかなった魚しか仕入れず、「悪いのはいじくったことがないんです」というのが自慢の店でした。

 店先のケースにはさほどたくさんの魚が並んでいるわけではありませんでしたが、どれもご主人の目が届いた上物で、『甲州屋』さんの鯛(たい)は天然物と決まっていました。店脇の路地に立てかけられた網には、その日の干物が並んでいます。鰺(あじ)やイカ、カマス、えぼ鯛、季節になるとボラの子が干してあり、程よい唐墨(からすみ)になるのを心待ちにしていました。

 昭和8年に今のご主人の系統になって三代目だといいます。最初にこの地で魚屋を開いた方が甲州出身で、『甲州屋』という店名になったそうですが、創業は明治か江戸か分からないと言います。

店じまいの日の甲州屋の店先
 奥さんが自転車で配達に出ている時は、店先に立つとご主人が奥から顔を出してきます。「なんにします」「今日は何がいいかな」「イサキのいいのが入ってますよ」「じゃ、二本」というと、秤(はかり)に載せながら、「奥さんとこは二人でしょ、この大きさなら一本で十分」と、いいながら経木の端っこにマジックで値段を書き入れ、白い薄紙でくるみ輪ゴムで留めて、手渡ししてくれます。ご主人と奥さんは冬の日も夏の日も、その日の商いが終わるとジャージャーと水音を立てて、床を洗い流し、磨き立てられた店先は常に清潔でした。

 その『甲州屋』さんがふいに店を閉じました。暮れには娘さんが店を手伝っている姿も見えたので、まさか閉じることになるとは思いもよりませんでした。『甲州屋』さんはこの通りにずっといつもあるものと思い込んでいたのです。店はご近所の常連も多く、『甲州屋』さんの干物はスーパーの干物と違って、肉厚で塩加減が程よく、少々値が張っても干物を食べるなら『甲州屋』さんのというお客がたくさんいた筈(はず)です。

 奥さんに「どうしてなの」と尋ねると、「ごめんなさいね、主人が腰を傷めていて、限界だったのよ。もう休ませてあげたいの」と言います。娘さんはすでに嫁いで、『甲州屋』さんを継ぐ人はいないのです。

慣れた手つきで魚をさばく節子さん
 通りすがりに何気ない日々のあいさつを交わし、近所の駐車場がいよいよマンションになるらしいとか、お茶やさんが店仕舞いすることになったなどという噂(うわさ)話をした店先の人溜まりは消えて、シャッターが下りています。

 わたしは変わらずに、シャッターの下りた店前を通ります。近くにはコンビニも二軒あり、少し歩けば24時間営業のスーパーもあります。暮らしに不便はありません。しかし、わたしの日々の暮らしから、何かがひとつ消えてしまったような気がします。

 暮らしは時とともに緩やかに、変わってゆくものなのでしょう。それは受け入れなければならないものなのでしょうが、ふとした言葉のやりとりやいつもの人の行き交いがどれほどわたしの心を柔らかに包んでいてくれたことかと思います。

 深夜、わたしの店からの帰り道、『甲州屋』さんから水音が聞こえたような気がして足を留めました。シャッターを開けたら、以前のようにあのご主人と奥さんが水を流しながら床を掃除しているような気がしたのです。


高木凛

高木凛(たかぎ りん)

~赤坂潭亭主人、脚本家、料理研究家~

東京都出身。80年代後半からテレビやラジオの脚本家として活躍。「黄色い髪」(NHK)、「息子よ」(TBS)などを手がけ、「父系の指」(TBS)では94年度ギャラクシー大賞を受賞。その後、病気療養で訪れた沖縄に魅せられて、東京・赤坂に沖縄懐石料理店「赤坂潭亭(あかさかたんてい)」を開き、主人となる。

赤坂潭亭ホームページ
関連情報 小学館ノンフィクション大賞を受賞

このコラムは asahi.com アスパラ で 2007年9月12日 に掲載されたものです

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『まほろば食堂』とは
高木凛が〈心のまほろば〉綴ったエッセイ集です。
昨年一年間、朝日のアスパラクラブプレミアムコラムに連載されました。


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