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『童は見たり』

野バラ
 『野ばら』はいつも夏服の兄を呼び起こします。

 タクシーのカーラジオから懐かしいピアノ曲とともに、美しいソプラノが流れてきました。「童は見たり、野なかのばら」という、あの『野ばら』です。曲は、シューベルト作曲の軽やかな方ではなく、ゆったりと始まるウェルナー作曲、訳詩、近藤朔風(さくふう)のものです。

 『野ばら』を聞くと、いつも記憶の中から兄が立ち上がってきます。

 あの時、兄は母とわたし達の少し先を、口笛でこの曲を吹きながらひとりで歩いてゆきました。白いカバーがかかった帽子を被り、グレーの学生服を着ていました。

 母やわたしたちと言葉を交わすでもなく、バスの停留所まで、夏の道を口笛を吹きながらずんずん歩いてゆきました。

 二人兄妹の兄とわたしは八歳年が離れていますから、兄が中学生だとするとわたしはまだ小学校に入ったばかりの頃でした。昭和28年か29年の頃ということになります。

ウェルナー『野薔薇』の楽譜の一部

 当時兄は、母やわたしたちのもとを離れて、父方の祖母のもとで育てられていました。長男である兄は東京の自由な空気の中で育った母のもとから引き離され、祖母の強い意向で、父の郷里で教育されることになったのです。

 今では考えられないことですが、地方で小なりといえど家格を重んじる祖母の誇りが母から兄を引き離しました。母はこのことに何と言って抵抗したのか、兄はどんな思いだったのか。わたしは幼すぎて何も分かりませんでした。

 ただ、学校が休みになるたびに母に手を引かれて兄に会いに行きました。そんなことが数年続いて、やがて間遠になりました。

 東京での暮らしの中で兄の存在が次第に遠いものになりつつあった頃、兄が家出をしたということを知らされました。祖母の家で何があったのか、高校に入って間もなくの頃でした。

 その兄が母とわたしの前にふいに現れたのは、十数年後のことでした。この人がわたしの兄かと思うほどに様変わりして、すさんだ暮らしぶりがうかがわれました。それからは年に一、二度現れてはあるだけのものを持ってゆくという乱暴ぶりで、わたしは兄を嫌悪するようになりました。また、その兄の言うなりの母も歯がゆく、随分と母を責めたこともありました。 

 人生を踏み外してしまった兄は、親類中に迷惑をかけ、まるで命を棒にふるようにむちゃな暮らしをして、50代で突然亡くなりました。

 あの時、口笛を吹きながら前を歩いていた兄に、わたしは声を掛けたかったのに、何も言えずにただ母と手をつないで歩いていました。今思えば、母も兄と話したかったに違いないのです。一緒に帰ってきてしまえば良かった。

 いまだにあの時、わたしが「お兄ちゃん」と声を掛けていたら何かが変わっていたかも知れないと思うことがあります。


高木凛

高木凛(たかぎ りん)

~赤坂潭亭主人、脚本家、料理研究家~

東京都出身。80年代後半からテレビやラジオの脚本家として活躍。「黄色い髪」(NHK)、「息子よ」(TBS)などを手がけ、「父系の指」(TBS)では94年度ギャラクシー大賞を受賞。その後、病気療養で訪れた沖縄に魅せられて、東京・赤坂に沖縄懐石料理店「赤坂潭亭(あかさかたんてい)」を開き、主人となる。

赤坂潭亭ホームページ
関連情報 小学館ノンフィクション大賞を受賞

このコラムは asahi.com アスパラ で 2007年10月17日 に掲載されたものです

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『まほろば食堂』とは
高木凛が〈心のまほろば〉綴ったエッセイ集です。
昨年一年間、朝日のアスパラクラブプレミアムコラムに連載されました。


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