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消えた包厨

東道盆

 沖縄には東道盆(トゥンダーブン)と呼ばれる、直径40センチほどの六角や丸型の美しい蓋(ふた)付き漆器があります。中国語で東は主人を、道は客に対する主人役をさすところから、大切な客をもてなす料理盆を意味します。

 大和の本膳料理の影響を受けて発達した、沖縄の接待料理「五段のお取り持ち」(グダンヌゥウトゥイムチ)の二の膳と三の膳の間に、七種の前菜を盛って出されたと伝えられています。

 中央に飾り包丁をいれた花イカを盛り、周囲には豚を黒ゴマで蒸しあげたミヌダルや田芋の揚げ煮などを配します。客はまず、螺鈿(らでん)や沈金などの美しい細工をほどこされた蓋を愛でてからおもむろに料理に箸をつけるのが礼儀でした。

 「五段のお取り持ち」料理は、中国からの册封使(答礼使)の接待料理として工夫されたもので、これらの料理を作ったのは包厨(ホウチュウ)と呼ばれた料理人たちです。

 包厨とは本来、調理場を意味する言葉ですが、沖縄では調理場で働く人々を包厨と呼ぶようになりました。

民家の石垣

 包厨は食材を集め、献立を書いて主に示さなければなりませんでした。庶民は文字をもつことを許されていませんでしたから、読み書きのできる士族がその任にあたりました。

 包厨が活躍したのは首里城内ばかりではありません。那覇の富裕な商家や離島の在番所でもその腕を振るっていました。その包厨たちの献立の記録は、離島の在番所や、薩摩の台所奉行だった石原家文書の一部として、尚古集成館に残され、いまに伝えられています。

 1879(明治12)年、時の日本政府は琉球王朝を廃し、沖縄県を設置しました。世に言う「琉球処分」です。この琉球王朝の終焉とともにおもてなしの「五段のお取り持ち」料理も、それを作った包厨たちの存在も歴史の中に消えてゆきました。

 琉球処分以降の沖縄は、明治、大正、昭和と苦難の道を歩み、先の大戦では日本本土の防波堤となり、地形が変わるほどの砲弾を浴びてあらゆるものが破壊されました。

納屋の前の野菜

 戦後、米軍統治を経て日本に復帰する1972(昭和47)年まで、琉球処分から約1世紀の間に料理ばかりではなく、漆芸、染織物、陶芸などさまざまな伝統芸が、まるでダルマ落としのように断ち切られてしまいました。

 東道盆は、琉球の華やかなりし時代のお持てなし料理の名残をとどめる器です。この正月の赤坂潭亭10周年を記念する料理は、包厨たちの残した折り目正しい墨跡にふれながら、かつての大琉球時代の料理に分け入り、東道盆でご用意しようと思っているところです。


高木凛

高木凛(たかぎ りん)

~赤坂潭亭主人、脚本家、料理研究家~

東京都出身。80年代後半からテレビやラジオの脚本家として活躍。「黄色い髪」(NHK)、「息子よ」(TBS)などを手がけ、「父系の指」(TBS)では94年度ギャラクシー大賞を受賞。その後、病気療養で訪れた沖縄に魅せられて、東京・赤坂に沖縄懐石料理店「赤坂潭亭(あかさかたんてい)」を開き、主人となる。

赤坂潭亭ホームページ
関連情報 小学館ノンフィクション大賞を受賞

このコラムは asahi.com アスパラ で 2007年11月28日 に掲載されたものです

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『まほろば食堂』とは
高木凛が〈心のまほろば〉綴ったエッセイ集です。
昨年一年間、朝日のアスパラクラブプレミアムコラムに連載されました。


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