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琉球簪

琉装の女性

 その簪(かんざし)を髪にさしている人を最初にみたのは、那覇の国際通りに面した民芸店でした。

 琉球舞踊の華やかな簪とは違います。引き締まった彫りの深い顔立ちの店の女主人が、長い黒髪を頭のてっぺんで沖縄風にくるりと丸めて、銀の棒状の簪で纏(まと)めています。

 これがあの火野葦平の小説『赤道祭』に登場する琉球簪かしらと思い、買い物をしながら見惚(ほ)れていると、視線を感じたご主人が「何かお探しですか」と、寄ってきてくれまし た。

 『赤道祭』は火野葦平が戦後公職追放が解かれたあと、1951(昭和26)年に発表した海洋小説です。水産科の学生である主人公が海に潜っている時に、偶然、海底で琉球簪を拾います。その簪の持ち主と思われる沖縄の美しい女性との恋物語を軸に、当時としては珍しい赤道近くで産卵するといわれている鰻(うなぎ)の稚魚の養殖をするエピソードなどが挿入されています。

火野葦平

 この『赤道祭』を手にすることになったのは、沖縄の女傑、照屋敏子の評伝を書いている時でした。敏子は那覇の家を空襲で焼け出されて、一家をあげて九州に疎開し、福岡で終戦を迎えました。戦後の福岡には、海外から引き揚げてきたもののアメリカ軍政下の故郷に帰ることができない沖縄の人々が溢(あふ)れていました。

 敏子は、同胞の飢えを救うために戦争帰りの海の男たちを集めて、女だてらに船団を組み、海に出ます。彼女は沖縄一の漁港として知られた糸満の女でした。敏子の名はたちまち「海の女親分」、「女海賊」として九州中に響きわたりました。

 その敏子の名声を聞きつけて、火野は敏子を訪ねました。火野には他にも鉄道の敷設に生涯を賭けた女を描いた「女狭一代」という小説もあり、まさに敏子の女狭ぶりに惹(ひ)かれて親交を結んだものと思われます。『赤道祭』ばかりではなく、他にも火野には海を舞台にした小説があり、敏子との交流の中で得た素材と思われるものも見えています。

照屋敏子

 民芸店の女主人は「これですか」と言って、こともなげに簪をすっと抜いて見せてくれました。髪が崩れるのではと心配しましたが、ピンでしっかり止められて、崩れることはありませんでした。簪の頭はスプーンの先のように抉(えぐ)れ、女の顔を表しているのだそうです。その抉れの下にすっと伸びた竿(さお)の先は鋭く尖(とが)っています。

 「これはジーファーと言って、銀で出来たものですけど、位によって金だったり、庶民は貝や木でつくったりしたものを差していたそうですよ。戦争中はこのジーファーもみんなお国に供出して、五寸釘(ごすんくぎ)を差していたといいますよ。いつも身につけているジーファーは沖縄の女の魂です。いざという時は髪からこれを抜いて、身を守ったんです」

 慣れた手付きでジーファーを髪に戻したご主人を見て、わたしはこの時ばかりは自分の髪が短いのを恨めしく思いました。ジーファーを差すには、髪を束ねあげる長さが必要です。わたしは、病んだ時に薬の副作用で髪が抜けてから、髪を伸ばすことに臆病(おくびょう)になってしまい、この十数年というもの、ずっと床屋さんでオカッパ頭に切りそろえて貰うのがせいぜいなのです。

 いつかわたしの髪にジーファーを差してみたい。琉球簪はそんな思いを抱かせる、無駄のない美しい姿の簪です。


高木凛

高木凛(たかぎ りん)

~赤坂潭亭主人、脚本家、料理研究家~

東京都出身。80年代後半からテレビやラジオの脚本家として活躍。「黄色い髪」(NHK)、「息子よ」(TBS)などを手がけ、「父系の指」(TBS)では94年度ギャラクシー大賞を受賞。その後、病気療養で訪れた沖縄に魅せられて、東京・赤坂に沖縄懐石料理店「赤坂潭亭(あかさかたんてい)」を開き、主人となる。

赤坂潭亭ホームページ
関連情報 小学館ノンフィクション大賞を受賞

このコラムは asahi.com アスパラ で 2007年12月5日 に掲載されたものです

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『まほろば食堂』とは
高木凛が〈心のまほろば〉綴ったエッセイ集です。
昨年一年間、朝日のアスパラクラブプレミアムコラムに連載されました。


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